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日本歯科保存学会 熊谷 崇 先生 講演レポート

「人生100年時代に向けて8020から「KEEP28」へ」
(熊谷 崇先生のご講演)を拝聴して

2022年11月15日
西 真紀子


 2022年11月10日、岡山コンベンションセンターで行われました日本歯科保存学会2022年度秋季学術大会(第157回)に参加し、シンポジウムⅠ「健康寿命を楽しむための歯科保存治療のあり方」を拝聴いたしました。その中で熊谷 崇先生によるご講演「人生100年時代に向けて8020から「KEEP28」を中心に、内容と感想をご報告します。

本シンポジウムは全90分間の予定で、以下の3人の講師がこの順番で登壇されました。


  1. 「人生100年時代に向けて8020から「KEEP28」へ」
     日吉歯科診療所 理事長 熊谷 崇 先生
  2. 「健康寿命延伸に寄与する口腔健康管理」
     日本歯科総合研究機構 主任研究員 恒石 美登里 先生
  3. 日本歯科保存学会に関する状況」
     厚生労働省医政局歯科保健課 課長 小椋 正之 先生


 熊谷崇先生のご講演は期待が高かったためか、開始時間が近づくにつれ、一番大きなA会場に次々と人が入り、ほぼ満席の状態でした。それより小さなC会場ではサテライトで視聴できるようになっていたようです。このシンポジウムは「認定プログラム2単位」にも指定されていて、その時に学会に参加していたほぼすべての参加者が聴講したのではないでしょうか。

 熊谷先生の持ち時間が40分(他の2人は20分ずつ)と限られていましたので、50年間の臨床をまとめて、健康寿命を楽しむための歯科保存治療について提言をするまで運ぶのは至難の業だったと思いますが、見事に聴衆を惹きつけられた全く無駄のない濃いご講演でした。

 始めに熊谷先生がどのように卒後教育を受けてきたか、国内外の超一流の研究者らが紹介され、それらの先生を酒田に呼んで教えてもらったり、自分で海外に行ってセミナーを受けたりしたことをお話されました。錚々たる顔ぶれで、これほど最上質な「知」をこれほどの量、自分の中に取り込んだ人は、会場の中はほとんどが大学人でありながら、臨床家の熊谷先生ただ一人だったと思います。 “You are what you read.” と言われますが、なんと贅沢な歯科医師が日本に形成されたのでしょうか。

 そして、「知」を取り込むことで終らずに、それらを忠実に実践に移したという点が、さらに評価されます。「日本の事情」「保険診療に入らない」という名目による中途半端な妥協はなく、メディカルトリートメントモデル(MTM)を確立されました。MTMの紹介については皆様のご存知のところなので割愛いたします。

 MTMを確立された後は、補綴、歯周病、歯内療法、矯正の専門医を迎えて、高度な歯科治療を来院する患者さんに提供する体制も作られたことを示されました。これは、熊谷先生が、元々補綴が大好きで得意な歯科医師だったからできた発想だと思います。予防歯科だけしか見えていないと、高度な歯科治療まで視野に入らないかもしれません。

 一方、高度な歯科治療をしたい、または高度な歯科治療ができる歯科医師は数え切れないほどいるのですが、その下地になる定期的なバイオフィルムの破壊と除去をするというインフラを作ることができる人は、熊谷先生がお若い頃は皆無に等しかったでしょう。なぜならスタッフ教育は想像以上に困難で、設備投資も膨大に嵩み、度胸のいる判断を迫られたからです。同じ時代に欧米だったらもっと簡単だったかもしれませんが、日本では、インフラを整えるだけで様々な闘いがあり、最速でも歯科医師人生一世代分を費やさずを得なかったということが見て取れます。本当は補綴を思う存分やりたかったであろう熊谷先生が、インフラなしでは砂上の楼閣になることを見越し、補綴大好きな歯科医師魂を抑えて、地味で苦労の多いインフラ作りに奔走し、次の世代が最高のコンディションで補綴ができるようにされたのだなあと胸が熱くなりました。

 症例発表では最長で42年、平均35年間を経過した症例が次々と登場し、「KEEP28」が現実的に可能であることを示唆されました。その中には100歳を超える症例も複数ありました。3世代を通じた症例もありました。タイトルのように「人生100年時代に向けて」は、こういう歯科保存治療でなければならないと頷きました。そして、今、下顎第一乳切歯が生えてきた赤ちゃんから「KEEP28」の実現のために行動を起こすことが肝要であるというメッセージも忘れてはならないでしょう。

 一般的に、症例発表では、それはたまたま出会った「1症例」ではないかと疑うことが普通です。その症例の裏に何百倍の失敗症例があるかもしれません。説得力を持たせるためには、バイアスをできる限り除いた臨床データを分析して示す必要があります。しかし、そこに行き着くためには途方に暮れる労力が必要で、どの大学でも熊谷先生ほどの臨床データを蓄積していません。35年という長期メインテナンスの規格化した症例写真もなかなか存在しない上に、臨床データで説明されると、もう手も足も出ない感があります。そのため、この段階ではもう、熊谷先生のことを「宗教」だとか「熊谷チルドレン」だとか「過激」などと揶揄していた一部の大学人も恥ずかしくなったのではないでしょうか。

 ご講演が終わった後に遭遇した名誉教授らも口を揃えて絶賛されていました。そのうちのお一人は、自分の講座でも臨床データを取り始めていたけど、独立行政法人化で目先の利益を取らなくてはいけなくなって頓挫したとおっしゃっていました。あれをやりたかったと。私の大阪大学歯学部歯科保存学講座時代にお世話になった先生たちも絶賛されていました。もう25年も前になりますが、つまり、熊谷先生の35年経過症例もまだ10年経過症例くらいだった頃、その先生たちも、熊谷先生のことは、称賛はするけれど、お金にならないことをしている「赤髭先生」を横目で見る程度の注目度でした。まさか、その後25年も続くとは思われていなかったでしょう。しかし、熊谷先生が大学人からの低関心も、中には批判や誹謗中傷も全く意に介せず、孤独でも孤立してでもひたすら科学に忠実に、ブレずに患者さんの生涯に渡る口腔保健のため、酒田を世界一にするための歯科臨床を行って来られた結果、「いや〜凄いわ」と言わしめたわけです。私は、ここまで継続された意志の強さと共に、経済的にも成り立たされた経営手腕に対しても、類まれな才能をお持ちだと敬意を抱きます。そして、この年月の経過ほど強い武器はないとも感じました。

 久しぶりに遭遇した後輩からも「熊谷先生、凄いですね」と声をかけられ、彼女が指導している横にいた大学院生も「日吉歯科診療所に見学に行きたいです」と言われました。「多分、もう無理だと思うけど、私にできることがあれば言ってください」と返事をしました。

 次に登壇された恒石美登里先生は日本歯科医師会の関連団体である日本歯科総合研究機構から来られ、歯科と医科の保険診療のビッグデータを分析し、残存歯数と全身健康に関係があることを説明してくださいました。恒石先生が冒頭で、このシンポジウムの3人がどういう話をするのか前の晩まで知らされていなかったとのこと。熊谷先生が最初にあの異次元の発表をされて、それは戸惑っただろうと思いました。8020がどう貢献しているのか云々の話も、100歳で「KEEP28」が達成できるという話の後では落差があり過ぎて、聴衆としても頭を切り替える時間がほしかったくらいです。

 恒石先生の一貫したメッセージは、口腔が健康であれば、健康寿命延伸に寄与することがデータで示されているということでしたが、気をつけなければならないのは、保険診療のビッグデータの分析では、ある決まった1ヶ月間のデータを切り取っているので、いわゆる横断研究になります。横断研究では、因果関係は見つけられませんので、関連性が認められたとしても、どちらが卵でどちらが鶏かはわかりません。恒石先生がおっしゃるように残存歯数が少ないと、健康寿命が縮まるのかもしれませんし、寝たきりの人は歯も磨けずメインテナンスにも行けないので口腔衛生がボロボロになって残存歯数が少なくなりがちなのかもしれません。

 また、保険診療のビッグデータの落とし穴は、データの質があまりにも悪いことで、意味をなさない恐れがあります。熊谷先生も講演内で言及されていたのですが、歯槽骨支持のない歯や残根状態の歯が残存歯数に加わって8020達成としているのが現状です。また、治療やメインテナンスの質も、格安の診療費では担保できない、病名の正確さも不正請求もチェックできないと、挙げれば切りがありません。

 最後に登壇されたのは厚労省の小椋正之先生で、歯科行政の最新情報を教えていただけました。恒石先生のお話の後でしたので、繋がりもあり、それほど違和感を感じずに聞き入れましたが、政策にエビデンスが応用されているのだろうか、その政策の効果は科学的に検証されているのだろうかという点が気になるところです。巷ではEBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)という言葉をよく聞くようになりました。歯科行政のEBPMはどうなっているのでしょうか。

 また、熊谷先生のご講演の中では英国の公立歯科サービスの崩壊について語られましたが、実は、スウェーデンでも、英国ほど劇的ではないものの公立歯科医療サービスの存続が危ぶまれているそうです。このことは日本の行政担当者たちに、どう受け止められているのでしょうか、日本の歯科保険も崩壊していくのではないでしょうか、どう改革していくべきなのでしょうか。そういった疑問が頭を巡り、シンポジウムの最後に質問してみようとそちらに集中力が移ってしまいました。

 そのうち、私の頭の中では、熊谷先生は質疑応答やディスカッションでの応答も抜群に迅速で的確なので、「もし日本も英国と同じようになるのなら、日本歯科医師会や厚労省に日本の歯科医療を救うための提言を熊谷先生にお願いします」と質問内容が固まりました。この質問で、バラバラな3人のプレゼンテーションも有機的に繋がり、シンポジウムのタイトルにも矛盾しないので座長さんにも喜ばれるのではないかと、我ながら良いと思ったのですが、質疑応答時間は省略されてしまいました。

 最後に座長さんが「臨床データを取りましょう」というメッセージで終えました。確かに前述のように「臨床データ」のインパクトは強かったのですが、それは臨床効果を示す手段であって、その先には「KEEP28」の実現に歯科保存学会、歯科医師会、厚労省が道筋をどう取ったらいいのかということを結語にしてほしかったです。願わくは、この錚々たる3人がオーラルフィジシャン・チームミーティングのようにステージ上に並び、合意形成してほしかったです。MTMがここまで効果をあげていることが熊谷先生のご発表で明らかになり、次は、これを学会や歯科医師会や厚労省のリーダーシップのもとで、どう日本に広げていけばいいのかということが課題として次世代にバトンタッチされていると思うのです。本当に、千載一遇の好機だったのに、時間がないというのは残念でした。

 余計な結果論ですが、本シンポジウムは、熊谷先生の基調講演を60分に、3人のディスカッションを30分か、どうしても3人が講演しなければならないのなら、熊谷先生を3番目に配置された方が、演者のためにも聴衆のためにも良かったのではないかと感じました。近い将来、他の場でそのようなチャンスがあることを切に願っています。


※オンデマンド配信について
熊谷先生からのお申し出により、著作権保護ならびに個人情報保護の観点からオンデマンド配信を見合わさせていただくことになりました。本講演の視聴を楽しみされていた方には大変申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします。



筆者プロフィール

Makiko NISHI

西 真紀子 NPO法人「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」(PSAP)理事長

1996年 大阪大学歯学部卒業
     大阪大学歯学部歯科保存学講座入局
2000年 スウェーデン王立マルメ大学歯学部カリオロジー講座客員研究員
2001年 山形県酒田市 日吉歯科診療所勤務
2007年 アイルランド国立コーク大学大学院修士課程修了
Master of Dental Public Health (MDPH)取得
2010年 NPO法人「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」(PSAP)理事長
2018年 同大学院博士課程修了 
   Doctor of Philosophy(PhD)取得