第9話/「専門学校から歯科大学へ~けん引者たちの歩みにみる歯科医学史~」(近代歯科・事始めを巡る散歩①)
日本の歯科医療と歯学教育の出発点にあった二つの流れ
再三触れてきたように、日本における近代の歯科医学および歯科医術は、幕末の横浜外国人居留地で種がまかれ、発芽しました。
種をまいたのは、南北戦争(1861/文久元年~1865/慶応元年)の終結から間もないアメリカで近代歯科医学を学び、新天地を求め横浜にやってきた、冒険的なアメリカ人歯科医師たち(ウィリアム・クラーク・イーストレーキ、セント・ジョージ・エリオット、ハラック・マーソン・パーキンスなど)です。
彼らがまいた種は、彼らに指導され、刺激や影響を受け、触発された日本人の直弟子や孫弟子、間接的な信奉者たちなどの間で発芽し、やがて開花していきます。
そして奇しくも、それらの人材の多くは、日本の南北戦争ともいうべき戊辰戦争(1868/明治2年~1869/明治3年)など、幕末や明治初期の内乱を直接・間接に体験した元士族たちでした。つまり、教える方も学ぶ方も戦禍の余韻を漂わせた世代の人たちなのです。
同じ国の人間同士が戦う内乱が、勝った方にも負けた方にも大きな挫折感や空虚感をもたらすことは容易に想像できます。そうした気持ちを払しょくするかのように、彼らが重ねた新時代に向けての超人的な努力や研鑽が、結果的に日本の近代歯科医学の土台を形成したことは、いろいろな意味でもっともっと強く記憶され、議論されるべきテーマではないでしょうか。
「ヨコハマ仕込みの日本人歯科医師」の代表として、本欄で再三取り上げてきた小幡英之助も、豊前中津藩士の子に生まれ、幕末には弱冠15歳で幕府軍の長州征討(1864/元治元年)に従軍しています。その後に医学を志して上京し、中途で歯科医師の道へ進路変更した小幡は、横浜でエリオットに師事。「第1回医術開業試験(1875/明治8年)」を「歯科」で受験し、合格した直後に銀座で開業します。
小幡は日本人初の西洋歯科医院開設者、西洋歯科の治療技術を体得した最初の日本人歯科医師として、自身も優秀な弟子たちを育てていきます(本欄第6話・第7話参照)。
これまで触れる機会がありませんでしたが、小幡英之助と同様、やはり「ヨコハマ仕込みの日本人歯科医師」として知られているのが、イーストレーキの直弟子・長谷川保(保兵衛)です。
長谷川保が横浜のイーストレーキの診療所で学んだ期間はわずかでした。しかし、イーストレーキが離日し、上海・香港で開業するのに伴い同行。ドイツにまでついていきます。長谷川保は結果的にアジア&ヨーロッパを股にかけ、総計約7年間(1869/明治2年~1874/明治9年)もの長きにわたり、イーストレーキの助手を務めながら、外国人の患者を相手に先端の歯科医療に従事するという、当時としては実にまれな体験をすることになります。

水道橋にある日本大学歯学部附属病院。同病院の歴史は100年を優に超える
長谷川保は帰国後、故郷(両国)に近い本所横網町で診療所を開業(1876/明治9年~1877/明治10年頃)します。同時に佐藤重(日本大学歯学部のルーツとなる『東洋歯科医学校』を1916/大正5年に創設した佐藤運雄の養父)など、優秀な弟子を育てていきます。
1926(昭和元)年に発行された「歯科医史ライブラリー」(旧大日本歯科医学会編:歯科沿革史調査資料)というタイトルの文書資料によると、長谷川保は上海やドイツで見聞したり、現地で外国人の患者を治療した際に扱った最新の医療機器などを、帰国後にアレンジして再現。義歯製作の技術などにも長けていたようです。
小幡英之助も小幡式治療椅子を考案するなど非常に器用な人で、師・エリオットに重宝されたと伝えられています。そうした傾向の背景には、彼らが外国人歯科医師たちの「助手」からスタートしたという事情もあります。当時の助手は現代の歯科助手的な役割に加え、技工士を兼務するなど、直接的な治療以外のすべてを担ったため「何でもできるタイプ」でないと務まらなかったのでしょう。
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一方、当時の体系的な歯科医学教育では最先端の位置にあったアメリカに留学(1872/明治5年~1878/明治11年)し、日本人として初めて「本場アメリカ」の歯科医学と歯科治療の技術を直接学んで帰国。小幡英之助と同じく銀座で開業したのが、本欄第6話で詳しく紹介した高山紀齋です。高山紀齋も岡山藩士として戊辰戦争に従軍した経験を持ち、人材育成にひときわ手腕を発揮しました。
半面、高山には小幡英之助や長谷川保など臨床現場でたたき上げてきた人々に比べ、アメリカの大学で基礎理論から実践的な治療技術までを体系的に学んできたという、異なった「出自」があります。
そのせいでしょうか。高山紀齋は一般向けの歯科治療啓蒙書から歯科医学の専門書まで、幅広いテーマの著作を臨床家時代に多く出版しています。さらにその後、東京歯科大学のルーツ「高山歯科医学院」を、1890(明治23)年に創設。今日に至るまで膨大な数の人材を育成する基盤を整えることになるのです。
明治時代のごく初期の日本人西洋歯科医師たちには、このように国内でアメリカ人医師たちに師事し開業した人たちを源流とする臨床家タイプと、本場アメリカで学んできた人々(医学者タイプの臨床家)を源流とする、二つの大きな流れがあったといえます。
しかし、医術開業試験(1875/明治8年~1916/大正5年)が軌道に乗るにつれ、二つの流れは瞬く間に合流します。「医術開業試験の予備校」的な、私塾に近い玉石混交の医学校が全盛を迎え、そこを巣立ち、医術開業試験にも合格した「純国産の歯科医師」たちが続々誕生していきます。
明治時代初期に本場アメリカで大成したもう1人のレジェンド歯科医師
その流れは、1906(明治39)年に日本初の「医師法」が制定されたのに伴い、公布された「公立私立歯科医学校指定規則」に基づき、戦後の歯科大学や大学歯学部にもつながる「歯科医学専門学校」の誕生へと続いていきます。
「公立私立歯科医学校指定規則」制定の翌年、1907(明治40)年に本格的な歯科医学専門学校として最初に生まれたのは、高山歯科医学院の発展形である「東京歯科医学専門学校(後の東京歯科大学)」と、「共立歯科医学校(後の日本歯科大学)」の2校です。
それ以降、1928(昭和3)年までの間に、計8校の本格的な歯科医学専門学校が誕生していきますが、8校のうちの6校は、現在も「旧6歯科大学」と総称される伝統校に発展します。

東京工業大学との合併で総合的な大学となった東京科学大学・旧東京医科歯科大学キャンパスは順天堂病院と隣り合っている
すなわち、先に書いた「東京歯科大学」と「日本歯科大学」に加え、「日本大学歯学部(源流は1916/大正5年発足の旧東洋歯科医学専門学校)」「大阪歯科大学(同1917/大正6年発足の旧大阪歯科医学専門学校)」「九州歯科大学(同1921/大正10年発足の九州歯科医学専門学校)」「東京医科歯科大学⇨2022/令和4年に東京工業大学と合併し、現在は東京科学大学歯学部(同1928/昭和3年発足の東京高等歯科医学校)」です。
ちなみにこれら6校のうち、最初から官立(国立)だったのは旧東京高等歯科医学校(現国立大学法人東京科学大学歯学部)だけでした。九州歯科医学専門学校は私立でスタートしましたが、1944(昭和19)年に経営権が福岡県に移管されたため、現在は公立大学法人九州歯科大学となっており、残る4校は私立です。
日本の近代歯科医学教育の基盤を形成した「旧6歯科大学」の成立過程にまつわる物件については、次回以降に散歩しながら触れていきますが、ここで再び、時計の針を明治時代前半期に戻し、高山紀齋からはじまる「アメリカ仕込み」の流れを汲む、もう1人のレジェンドを紹介したいと思います。
それは1885(明治18)年に渡米し、1894(明治27)年に帰国するまでの足掛け10年間をアメリカで過ごし、本場アメリカの歯科界で大変な業績を挙げた一井正典です。一井正典もまた、熊本・人吉藩士の子であり、14歳であの西郷隆盛が最期を迎える西南戦争(1877/明治10年)に従軍しています。
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1862(文久2)年に生誕した一井正典は、1850(嘉永3)年に生まれた高山紀齋より12歳下です。1885年にアメリカ留学に出発すると拠点をサンフランシスコに置き、現地で歯科の名医とされていたバンデンボルク(正式にはダニエル・バン・デンボルク、あるいはダニエル・バン・デンブルク/以下、バンデンボルク)に師事します。
このバンデンボルク医師については、本欄第7話でも触れていますが、何の目的もないままに渡米した高山紀齋が、たまたまバンデンボルクの歯科治療を受けた際に、歯科医師になることを勧めてくれたばかりか、住み込み修業をさせてくれた高山の大恩人です。
一井正典の渡米は高山紀齋の帰国から7年目のことで、一井正典も歯科医師を目指しての渡米ではなかったらしいことが、日本歯科医史学会々誌・通巻71号掲載の論文『一井正典とドクターヴァンデンボルグ』(筆者は松本晋一、渋谷敦)に書かれています。
この論文によれば、渡米当初の一井正典はアメリカの近代農業を学ぼうとしていました。そこでサンフランシスコの教会関係者から当面の働き口として、たまたま紹介されたのが、当時61歳になっていたバンデンボルク医師でした。バンデンボルクは歯科医師と農場経営を兼務していたのです。
そして一井正典がバンデンボルクの農場で働くようになってすぐ、1886(明治19)年の半ば頃からは、農作業の合間に一井正典がバンデンボルクに「歯科の指導」を受けはじめたことも、前出『一井正典とドクターヴァンデンボルグ』に紹介されています。
それが一井正典の側からの要望だったのか、バンデンボルクの側の勧めだったのかは、よく分かっていないようです。
しかし、このことによって、バンデンボルクは高山紀齋と一井正典という、明治時代初期にアメリカで学んだ日本人歯科医師を代表する2人のレジェンドの「育ての親」になったのです。
バンデンボルクの農場で農夫として働きながら歯科医学の勉強に励む生活を3年半以上にわたり送った一井正典は、1889(明治22)年に、名門のほまれ高いフィラデルフィア・デンタルカレッジ(フィラデルフィア高等歯科専門学校/現テンプル大学歯学部)への入学を果たします。
2年後の1891(明治24)年には、卒業試験に見事首席で合格するとともに、DDSの学士号やフィラデルフィア大学助教師の地位まで与えられたそうですから、かなり優秀だったことがうかがえます。
一井正典は卒業とほぼ同時にフィラデルフィア市内に歯科診療所を開業し、米国歯科協会にも正式加盟します。どちらも日本人としては初の事例です。
一井正典の快進撃は、さらにすさまじい勢いで続きます。フィラデルフィア市に加え、オレゴン州ポートランド市でも開業します。開業医として多忙な生活を送りながら、フィラデルフィア・デンタルカレッジで教鞭を執り、後進の指導にも当たっていきます。
長谷川保の師であるイーストレーキが初めて横浜外国人居留地で開業したとされるのは1865(慶応元)年頃のことです。また、小幡英之助が師事したエリオットが来日したのは1870(明治3)年のことです。
イーストレーキの来日から数えて30年も経過していないのに、また明治維新から20年とちょっとしか経過していない時期なのに、一井正典はなんと、歯科医師志望のアメリカ人学生たちの教師役をアメリカ本土で務めるようになったのです。
日本国内では「お雇い外国人」が明治政府の依頼で多数来日し、近代国家・日本を構築するためのインフラ整備や、各界における次世代育成のため、日本人を指導していた時代です。それを考えただけでも、一井正典のアメリカでの活躍ぶりは特筆に値します。
一井正典は1894年の帰国後、神田に歯科医院を開業するとともに、高山紀齋が設立した高山歯科医学院でも教鞭を執っています。さらに医術開業試験の委員を務めたほか、明治・大正・昭和の三代にわたる「天皇の侍医」としての重責を担うとともに、高山紀齋(初代会長)や小幡英之助(名誉会長)とともに、1903(明治36)年に発足した大日本歯科医師会(現日本歯科医師会)の設立にも尽力するなど、多彩な業績を残しました(没年は1929/昭和4年)。
こうした偉大な足跡を記念するべく、2012(平成24)年、一井正典の生誕150周年のセレモニーや講演会が、最初の開業地・フィラデルフィアや母校・フィラデルフィア・デンタルカレッジを継承したテンプル大学歯学部などにおいて実施されています。
アメリカとスウェーデンに育まれてきた日本の歯科医学
日本の医学界が近代以降、ドイツに多くを学んできたことは良く知られています。本欄でざっと見てきたように、日本の歯科界は、近代以降、アメリカに多くを学んできました。
日本と違って保険診療が一般的でなく、高額医療費にふさわしい顧客満足を追求する基本理念が通底するアメリカ歯科界の治療技術は、徹底的な専門制度(専門による役割分化)に裏支えされており、全般的にみて、現在でも世界最高水準を保っているといえます。
さすがは世界初の歯科医学専門学校「ボルチモア歯科医学校(現メリーランド大学)」を1840(天保11)年に、世界初の大学歯学部「ハーバード大学歯学部」を1867(慶応3)年に生んだアメリカというべきでしょう。
日本の歯科界がアメリカから受けてきた恩恵の大きさはいうまでもありませんが、そこに1980年代以降、予防歯科の先進国スウェーデンの影響も大きく関わってくることになります。
1970年代に「むし歯・歯周病予防」が国家プロジェクトとして開始され、1980年代から確立されてきたスウェーデンの「予防歯科」の独自なメソッドは、世界中から注目されるようになります。スウェーデン発祥の予防歯科の流れが、アメリカとはまた違うスタンスから、世界の歯科界にとっての「手本」の役割を果たしていくのです。
その流れを80年代初頭から日本でいちはやく体現し、日本における予防歯科の基盤を構築してきたのが、本欄第1回・第2回で触れた、山形県酒田市の「日吉歯科診療所」(熊谷崇院長)です。
スウェーデンの予防歯科医学の現況や、日本の予防歯科の発信源として国際的にも注目を集める「日吉歯科診療所」のメソッドおよび現況などについては回を改め、追い追い触れていきたいと思いますが、今や日本の歯科大学および大学歯学部の多くも、かつてのアメリカ一辺倒ではなく、近年は海外研修や留学先の目的地として、スウェーデンを重要視する傾向が顕著になりつつあります。
それは予防歯科への関心が、日本でもようやく主流になろうとしている兆候を示す一つの証左といえます。そこにたどり着くまでには、もちろん、日本の歯科医学を支える各歯科大学および大学歯学部における近代以降の試行錯誤、努力の積み重ねがありました。
ここから先は、そのプロセスの記憶を訪ねながらの散歩をしていきたいと思います。(以下、次号に続く/文中敬称略)
メイン画像説明
日本最古の歯科大学・東京歯科大学の校舎は水道橋の各所に分散している
筆者プロフィール
未知草ニハチロー(股旅散歩家)
日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。
