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もしも大臼歯を失ってしまったら

 大人の歯は親知らずを除くと基本的に28本あります。そのうちの1本を失うと、28分の1だから大したことはないと思われがちですが、他の歯にかかる力のバランスが大きく変わります。日本のデータ(平成28年歯科疾患実態調査)によると、一番多く失われている歯は第一大臼歯と第二大臼歯です。大臼歯の約60%は後期高齢になると喪失しているようです。

 例えば、左下の第二大臼歯を失うと、それまで噛み合っていた相手の左上の第二大臼歯が、失った「相棒」を探すかのようにだんだんと下に降りてきます。噛むというのは対合する相手がいてこその働きですので、左上の第二大臼歯も不用になってしまうわけです。同時に左下の第二大臼歯を支えていた骨も不用になり、徐々に吸収されていきます。隣の第一大臼歯を支えていた骨の近接する部位が減っていくと、その第一大臼歯の足場も怪しくなってきます。顎の関節の左右のバランスも崩れるかもしれません。

 こうやって次々と周囲に問題が起きることを防ぐために、歯科医師は28本を完成形として失われた歯を人工の物で補ってきました(補綴)。それには、ブリッジ、入れ歯、インプラントの3つの方法があります。そのうち保険で適用されるブリッジと入れ歯は、隣の歯に失われた歯の力をかけるため、隣の歯への負荷が大きくなり過ぎて、寿命を短くしがちです。特に、ブリッジは隣の歯を大きく削ることになり、侵襲が大きいです。

 ということで、補綴をしても歯列を壊すことに変わりはなく、ドミノ式に総入れ歯へと向かう道筋を防げていないのではないかと、それならば費用対効果の観点から補綴をしなくても良いのではと疑問に思うわけです。特に、インプラントが登場してきて、これは非常に高価ですから、歯はどこまで補綴すべきか、という議論が活発になりました。ちょうど視力をどこまで矯正するのかという議論と似ているかもしれません。現代生活では、遠くの獲物を察知できるような「視力5.0」を持っていなくても食物にありつけますし、「視力1.0」くらいの人がメガネをかけたりコンタクトレンズにすることはほとんどありません。歯も、現代の食事では柔らかく調理・加工されたものばかりで、様々な研究によると大臼歯はなくてもそれほど食事に困らないそうです。

 そこで、世界中の国々で膨張する医療費抑制のためにも、大臼歯の喪失だけなら敢えて補綴しないというコンセプトが脚光を浴びています。専門用語で「短縮歯列」(The shortened dental arch)と呼び、最初にオランダの研究者が提唱しました。現在、次々と追試がされて高齢者において「短縮歯列」を認める論文が主流です。「KEEP 28」(歯が生えそろってから一生を終えるまで一本も歯を失わないこと、現在の年齢から歯を失うことなく生涯自分の歯で生活すること)という究極の目標は是非目指してほしいですが、不幸にして大臼歯を失ってしまった時には「短縮歯列」というコンセプトで他の歯に負担をかけないという選択肢も入れてみてください。


写真説明

「歯の神様」が祀られている鹿児島県の松原神社。歯の健康にご利益があるそうですよ! 科学の力も信じてくださいね。


参考サイト


参考文献


  1. Kanno, T. and Carlsson, G.E., 2006. A review of the shortened dental arch concept focusing on the work by the Käyser/Nijmegen group. Journal of oral rehabilitation, 33(11), pp.850-862.

  2. Funke, N., Fankhauser, N., Mckenna, G.J. and Srinivasan, M., 2023. Impact of shortened dental arch therapy on nutritional status and treatment costs in older adults: a systematic review. Journal of Dentistry, p.104483.

  3. Khan, S., Musekiwa, A., Chikte, U.M. and Omar, R., 2014. Differences in functional outcomes for adult patients with prosthodontically-treated and-untreated shortened dental arches: a systematic review. PLoS One, 9(7), p.e101143.

  4. Manola, M., Hussain, F. and Millar, B.J., 2017. Is the shortened dental arch still a satisfactory option?. British Dental Journal, 223(2), pp.108-112.


筆者プロフィール

Makiko NISHI

西 真紀子 NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)

1996年 大阪大学歯学部卒業
     大阪大学歯学部歯科保存学講座入局
2000年 スウェーデン王立マルメ大学歯学部カリオロジー講座客員研究員
2001年 山形県酒田市 日吉歯科診療所勤務
2007年 アイルランド国立コーク大学大学院修士課程修了
Master of Dental Public Health (MDPH)取得
2010年 NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)
2018年 同大学院博士課程修了 
   Doctor of Philosophy(PhD)取得